昭和41年10月5日 夜のご理解




 ( )田主丸の、田代さんが(  )てから、昨夜も私がさがってから参ってきた。そして御祈念がすんでから、(  )本当にあの、お参りしたいと思うと、忙しいかってお参りできなかったり、その時間が遅れたり、して本当にあの申し訳ございませんというようなお届けがあっとります時に、そのことをお届けさせてもらいよりましたら、んー、「忙しい時が節」ということを頂いた。忙しい時が節ぞと。これはもう田代さんの信心に対してくださるのでございましょうけれども、そうじゃ、忙しい時には参ってこられんのじゃ、(  )になった人は参ってこられんのじゃ、だから健康で、そして暇な時にしっかり信心のけいこをさせて頂くのだと、というふうに教祖は教えておられます。ね、かというと、また次のみ教えにですね、その、んー、雨が降るから風が吹くからというて、 ( )とんえらいと思うてはならんとこう。ね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行ぞとこうおっしゃる。ね、ままよという心を出さなければおかげはうけられんと、ままよという、ままよとは死んでもままよのことぞと。ね、このままよという心をだせば、すぐにおかげが受けられるともおっしゃっておられます。ですから、その人の信心の一つの過程、もう例えば田代さんの場合は、もう忙しいということは言い訳にはならんとこういわれるわけです。ね、神様の前には言い分けはできん。まこれは厳しいことですけれども、今日(さっきから栄四郎がいいよった、)僕とこの先生はもう絶対あの宿題をしてくるということについてだけは、もう言い訳はされん。この前なんとか君が、言い訳した。ほしたらもう僕は初めて先生があげな( )もうびんたはじきまわしゃった。ちいうてあの、話よるですね。もう宿題がどうじゃったからできじゃった、こうじゃったからできじゃったちいうてから宿題の言い訳はしちゃならんというような教え方らしいですね。ま厳しい。もちろん、その(  )それが本当じゃない、嘘のことをいいよったから余計先生が腹かいたっちいうていうんですね。

 信心も、信心の言い訳はもうたたんとこうおっしゃる。言い訳、言い訳はできんとおっしゃるのは、もうそういう一つの、あー様々な信心を頂いて、いわゆる5と5を足せば10になるというようなおかげのところも分からせてもらって、もう5と5をかければいわば25になるぞというような、おかげをくださろうとする時ですね。ところが私共の場合はまだ5と5をたして10にもなってない、ような感じがする。お取次ぎを頂いて、そしてそれを教えを忠実に守らせて頂いて、なるほど5と5を足したら10になるなというようなおかげも頂かず、まあそれが8になったり9になったりというようなところ。そこで、これまでの自分たちの信心がどこにどげな違いがあるのだというふうに、正確にできてくるようになってからです、ですからもう、椛目の方達、これは田代さんを例にとるならば、もう椛目で10年、または15年信心のけいこをしておる人たちは特に椛目ではそげんところをもう教えられておると思うですね。言い訳はできんぞ、信心に言い訳はできんぞと。ね、忙しいという時ほどいうならもうそりあ、節のようなもんぞと。私それを頂いてから本当に、私はこれは味わうというよりも、頂かなければいけないことだなとこう思った。ね、だから忙しかりあ、お参りもできん、そげなことしよったらおかげおとす、そういう意味じゃないのです。ね、いうならば、そのような生き方で、いわば、この10になるおかげを頂くとこと5と5をたせば10になるようなおかげ。神様が、やはり夢にも思わなかったようなとか、ね、または、いわゆる5×5=25的なおかげを頂かそうとするために、そういう働きがある。特別なおかげを頂かなければならない、いわゆる時には、もうそれではいけないということを田代さんに教えられておると私は思うです。ね、ですからいつまでたってもいつまでたっても、例えていうなら、それはいつも言われるんですね、もう13日会といったような時にはもう必ず商売繁盛する。ははあだから、例えば、んー今日のような全体の田代さんの(頂き方)が、こういうようなおかげを頂いた時には、こういう風に、(  )のおかげを頂こうという、腹もきめきらんのですから、なるほど神様が、お商売の方にお使いまわし下さるんだな、これがご神意だなあとこう、いう頂き方をしておられたということ。ね。

 ですからそれで、まあ例えばなるほど、お金は御用もできれば、家の方の御用もできるというような、その考え方からですたいね、そこをもう一つ神様が、求めておられるように思う。そういう忙しい時こそ、まあいうならお試しと頂いてもよいだろう。もうそういう、試験問題が出されるだけの勉強がもうできたということなんだ。お試しがあるということは。ね、ですからそこんところを言い分けなしにです、例え忙しいから、ちょっと今日は、ちょっと今日はというてその、例えば、(   )おいて、信心の方に向こうてくるというよな信心。そこが、いわば節だとこう思う。節を乗り越えた時に、ここに信心から、ね、一つ脱皮した、その信心からもうちょい飛躍した私はおかげの世界、信心の世界というの、があると私は思うです。ね、雨が降るから、風が吹くからとこういうのは、まあ雨風のことであったり、難儀であったりといったようなことだけではなかろうと思う。ね、お参りさせて頂こうと思ったけど忙しかったと、お参りさせて頂こうと思いよったら雨が降ったからという、そういうことじゃないということ。ね、忙しかっても雨が降ってもいうならば、ね、そここそ、いわば通り抜けなければならん、突き抜けていかなければならないところだとこう思う。
 ね、ここんところを、私は神様は、もういわばまあ田代さんに求めておいでおられるなというふうに今日は感じた。そこんところを非常に、はあそこんところが私はいつもまでも、うろうろしとります、それをおかげというふうに頂いておる。ね、確かに最近そういうような意味のことをやっぱり密かに考えておったと、いったようなことをいうておられましたけれどもですね、ここのところに私、その先に、私は5と5をたせば10になるのではなくて、5×5=25的な、おかげ、いわばおかげの世界から徳の世界というものが、あるとこう思う。

 これも今朝の御祈念の、後に御祈念中に、久富繁雄さんが頂いておられるのは、関いつよさん、ね、あの関さん、関さん、が親子で手を引っ張ってです、手を引っ張っりおうてから、さあ、はようお参りせなんと言いよるところを、御神眼に頂かれたと。だから私、えー久富さんに申しましたんですけれど、こうして毎日、もうお日参りもできとるし、信心もできとるんですけれども、例えば、あーもう半年もなりますでしょうか、久富さんの( )非常に難儀な問題が起こったんです、突発的な問題が。もうそん時にはもう、もう繁雄さそんだけじゃない、奥さんだけじゃない、国雄さん、親子三人のものがもうがっちりくんでもう、それこそ一生懸命な信心ができられた。ほらもう本当にそれこそ、(   )本当にまあとにかく、まあ神様の働きというのは、どうにもこうにもできないほど、5×5=25的なおかげだったですね。もう実にそれは、まあもう本当にもう実に鮮やかなものでした。ね、だからああいう信心すりゃ、まあ今の一つ難儀があるだけなんです。ね、そんな日々、火のついたといったようなその問題ではございませんけれども、どうでもおかげを頂かねばならんという問題があるのです。ですから、これとても同じことじゃないかと。ね、関というのは、あれは関所である。いわば、今日、田代さんが頂かれた、あの節だということが感じられます。ね、煮詰めていうなら、志を立てるという感じがいたします。親子一家中の者がです、ここに志を立てて、この関を乗り越えさせて頂かなければ、次のおかげにはならんぞと。ね、その関を私は、その、今日田代さんが頂かれたです、その信心に、こう当てはめてみると、どういうことになるかというと、そういう関所と思われるようなところから、いわば、そこを乗り越ずに、はあこれも神様のご都合に違いはない、こんなにも大繁盛のおかげを頂いて、ね、これが大繁盛でも神様のおかげとつながっておる、( )の繁盛じゃない、この繁盛はそのまま(道理)につながっておる。だから有り難いことである、これはただ私が椛目に( )電話させて頂いたがおかげというような、ところからです、ここんところをいうならば、一つの関所と思い、そこのところを節と思うて、いよいよ受けるところに、もっと違ったおかげの世界がある。ね。
 ここんところをどうでも一つ、私は頂かなければ、本当いうたら、(椛目通いは    )じゃないと私は思うくらい。5と5を足せば10になる的なおかげならですね、えーまあ金光様だけじゃない、何様だって頂けるような感じもする。けれども、椛目はもう、極力ここんところを説いておる。5×5=25的なおかげということは、もうおかげの世界から徳の世界ということを説いておる。ね、もう辛抱がでけん、これが辛抱のしどころというような時こそが、おかげなんだ。

 今日、北野の秋山さんが、お礼にでてきてから、先日から、金銭に非常に行き詰まりを感じる。ね、どうにもそこんところばおかげ頂かんならん。それで、あるところに、ちょうどお月次祭のあくる日でした、ね。それが月次祭に参ってきたら、あそこカズエさんが、お月次祭の時の御理解が、金がないから借りてまわるといったようなことじゃなしに、ね、貸して頂いたというおかげじゃなくてです、本当に、お繰り合わせ頂けれる、そこんところを辛抱しぬいていくというおかげにならないかぞと、いうようにまあ頂いてきましたけれども、( )家族の者がみんな参って、カズエさんは参ってきちゃなかった。だから、明くる朝、その、(仕入れた)方の支払いが、(またあそこにかりにいくということだった。)そうこうしてまわりよると思うたところが、どっか向こうのその、つえ、つかれた。それがまあ、あのあんたが言うこっちゃから、(約束  )のこっちゃろから、心配してくれというて、あくる日いくことに約束しとった。けれどもまあカズエさんは日ごろの信心が、(そういう時にでるんですね)。これは神様が借りるなといいござるなとと思うたもんですから、そのある方に一心をたてた。一生懸命思うた。
 そしてその日は、主人をはじめ子供たちも全部、ご飯の後に今日はちょっとお母さんの話を聞いてくれんのというてその、話を聞いてもろうた。もうご本部参拝の費用も、もうまだ家は収めとらん。そういう、なんなんの費用、あれもこれも、ね、親先生がいつも言われるように、いうならあのお母さんに、お母さんがやはりお父さんとお母さんは、もうほんっとにご造営のことに一生懸命じゃんのち。それだけ言うたら涙が溢れてしようがなかったち。子供たちはみんなそれを聞いてから、もう後は言わんでん分かっとるちいう風な顔しとる。ね、だからここんところを、とにかく先生がいつ言われるように、ね、(民家の商売に?)なっちゃならん。ね、いうなら私共が千円のお供えをさせて頂くのと、(  )できんばってん、十円お供えするというなら、今の千円の方が大事だ。だからもう本当にお父さんと、そのお母さんは今、そのご造営のことで一生懸命じゃんのと。だからあんただんも、こらえたとけ、(うちもこうしていよいよの時には?)困るけれども、これは勢信心のおかげを頂いて、ここんにきを乗り越えていかないかんというてその、お話させていただいたらみんなが、もう分かっておるけれども、まあまた分かったといったような大変有り難いおかげだったとこういうのです。ね、でそれがですね、明くる日もう本当に、それこそ嘘のようなおかげになってきておるですね。

 これは例え、そのことを体験させて頂いてやっと生き生きと一家中のものがちゃとん揃わんとやっぱだめですねというてその、子供たちがいうようにおかげを頂いたとこういうのである。ね、(  )いうならば、椛目の信者はいわば、そういう時なのですから、ここのところを例えば、ぐすぐすでもでもしよったんではこの関所は乗り越えられないのであり、この節を、いわばよって向こうにいけることはできないということ。ね、竹の節でも、例えば割るからにはです、やっぱ節のとこによっちゃ(  )がよい。ね、( 節のとこまで割れんのです。)ね、そこに力を入れる時にボン、ボン、ボン、ボンとこう、割れていくような、そのおかげになってくるようにです、(     )確かにその節を割りきってない時なんです。力がたりない時なんだ。ね、忙しい、ね、忙しい時には、それを節と思わないと思う。忙しいからではもう神様が、そげな言い訳はでけんと、おっしゃっておられる時だから、元気を出してそこんところを、乗り越えさせて頂くところに、次のおかげの世界がある。今こそ、久富繁雄さんたちが、なら一家をあげてそのことに、取り組んで、この関を乗り越えさせていただこうじゃないかという、心が育たなければならんときである。同時に、( )さんたち、関さんが参ってございましたが、その話を聞きながらです、はあ本当に繁雄さんが頂いてくださったあれはもう( )私自身のことだと。いうなら、(  )さんがゴロゴロしてる、だから今こそ、(  )が、手をとりおうてから、さあ信心の方へ、しあ、本当に日夜、ね、信心の( )方へ手を引っ張って、(  )そういうおかげを頂かなければならん時であるというて、言うておられましたけれど。関いつよさんだけじゃありません、久富繁雄さんだけじゃありません、田代さんだけのことじゃありません。ね、そこんところを、今こそ、私とも5×5=25的なおかげの頂けれる力をです、いわゆるおかげの世界から徳の世界、力の世界へ頂かせてもらわなければならない、そういうおかげの頂けれる、まあ機会を頂いとるような気がするですね、どうぞ。




池尻てるか